一水会によせて

「高貴と会是と技法探求と  一水会六十回展に思う」  瀧悌三(美術評論家)

一水会が六十回展である。人の年齢なら還暦であり、還暦がめでたいように、この六十回展もめでたく、私は衷心から御祝いを申し上げる。しかしながら、一水会の歴史に照らすと、現一水会は、椅羅星のように偉材が居並んだ初代の英雄巨匠時代からは既に遠く、初代の栄光の余慶を享けた次代も過ぎて、孫世代の第三代に入っている。そして初代の輝きが余りに眩ゆいせいで、次代は輝きを減らし、第三代はさらにかげ窮って、今や過去の明るさを取り戻すために発奮して、小さくない努力を余儀なくされる、といった状況に来ているようだ。つまり率直なところ、危機的なのであり、組織、後進育成、方針策定等々の面で、問題が無いと言い切れず、問題の着実な解消が、緊要となっている、とみられるのだ。

だが、と言って特に新方策に出る必要はなさそうで、平凡な帰結になるが、従来の良い伝統を守る以外に手立ては無くて、要するに過去の遺産を現在に生かし、現在を活性化させれば足りよう、と私は思っている。もちろん私は外部の者で、会内の実情に暗く、言っても差し出がましい空論になるかも知れない。でも、私は一水会に期して願うものはあり、まあ、願望のたぐいだから、一応言わせてもらってもいいだろう。

それは三つあり、第一は高貴ということである。私は、前から、一水会の作品一般に共通する特徴として、嫌味の無さ、下卑たものへの拒否、品位の維持、といったものを感じていた。それは、良家の育ちの者が持つ良質の趣味性に類し、美質で、私の直覚では、創立会員たちの良き遺風に相違ない、とみていた。実際、創立会員たちの代表作を篤と眺めれば判るが、皆共通して位取りが高く、高貴であり、一水会一般の作品に流れている品位の源泉と言っていいのである。そして高貴は芸術の最終目標で価値なのだから、私は一水会に、この高貴志向の保持を願うのだ。

第二は、物に即して表す非抽象路線の堅持である。一水会が、戦後の抽象大流行期に、抽象を頑として容認しなかったことは有名である。昭和三十三年の一水会二十回展図録中で、有島生馬長老は記している。『一水会は油絵の具象的本道を行き、故意の歪曲に堕することを戒め、徒らに欧米の新流行に追随しないと主張し、これを護ってきた』と。これは一見識だ。抽象画を認める私だが、この具象主義にも賛同する。そして、一水会は、現在も今後も、これを会是として歩めばいいのではないか、と思っている。

第三は油絵の技法の研究と深化と練磨である。西欧の油絵伝統は十四世紀以来七百年もの歴史を持ち、日本の油絵はたかだか百三十年である。まだ、西欧伝統精神に発する技法の真髄に迫っていると言えず、迫るのはこれからだ。その肉迫を、私は一水会に期するのである。(第六十回一水会展図録より転載)