青在堂画学浅説

芥子園画伝の画像を見る・表紙(龍谷大学サイト)
芥子園画伝の画像を見る・青在堂画学浅説(龍谷大学サイト)

鹿柴氏(王安節。編者)いわく、絵画について論ずる時、繁密に描き込んであるのを良しとする者と、簡略なのを良しとする者とがいるが、繁密のみでも、簡略のみでもいけない。あるいは絵事は容易だとも、むずかしいともいうが、容易といってしまうのも間違っているし、むずかしいというのもまた違う。あるいはまた法式のあるのを尊重する者もあれば、法式のないのを尊ぶ者もいる。勿論、法式を無視することはいけないが、それに終始拘泥しているのはさらに良くない。

ただし、まず法式が厳として存在し、そののち自由自在の域に達するのであり、有法の極が無法に帰すといえる。晋の顧豈之の彩色はさらっとしており、手を動かすにつれて、美しい草花が生まれ、また唐の韓幹に馬を描かせると独壇場で、彼の馬の絵は鬼神がもとめに来るという。この位になれば法の有無はもはや問題でなくなる。しかし、まず使い古した筆を埋めて塚と成すぐらいに、あるいは鉄硯が研りへって泥となるほどに練習に練習を重ね、十日で一水を描き、五日で一石を描くような気持でじっくりと修業しなければいけない。

こういう修業ののち、李思訓は嘉陵江の山水を描くのに数ヵ月を要し、呉道元はその同じ景をたった一日で描きあげてしまった。そういう意味では絵を描くことは難事とも、またた易いことともいえる。ただ胸中に五岳の景地をすっかりたたみ込み、かつ料理人が牛を解体するのに全牛を見ずというが、それ程自在に筆が動き、万巻の書を読み、万里の道を行き、画祖となって、董源や巨然の藩籬に押し入り、顧豈之や鄭法士の堂奥に至るほどにならなければいけない。

そして倪雲林が王維(右丞)の画風を学んで、山はそそり立ち泉は直下するといった複雑巧妙な画を描く一方で、水は清く林は寂とした簡略な作品も描いているように、あるいは郭恕先が一疋の絹の一端に糸車をもつ小童を描き、他端に紙鳶を描いて、その間をただ数丈の糸一本でつないだだけの絵を描く一方、台閣を描くのに牛毛繭糸のような細い線で綿密に描いたりもしたようになれば、絵というのは緻密でもよいし、また簡略であってもともに良い。

しかし法式なしの絵を描きたいならば、まず法式を学び、た易く描きたいなら、まず難かしく描くことを心がけ、筆づかいの簡略な作品を描きたいならば、まず手のこんだものから学ぶべきである。古来、絵事には六法、六要、六長、三病、十二忌というものがある。これらをゆるがせにしてはいけない。(芥子園画伝東洋画の描き方:草薙奈津子訳:(株)芸艸堂発行より)